第一項:学びとは

第一項:学びとは

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前々から考えているのは、大学受験で地方受験生が抱える格差についてである。というのは、単純なものでは「塾,予備校,参考書の情報がない」ことから始まり「学びの場の欠乏」や「学問との向き合い方」などにかけて、情報に格差があるというものである。今日の大学受験界隈では「塾,予備校,参考書」の有象無象な情報こそ増えてきているものの、高等教育課程を学問的に学べる場はやはり欠乏している。学びの現場で学びに向き合うような教師や生徒の絶対数は非常に少なく、またそのような状態が醸成してきた空気が新たな芽すら無意識に刈り取ってしまっていることを感じる。近日はやれ高大接続だと宣い学びの実質的な現場である大学や高校を放ったらかしにして「改革」は進められているが、この現状を鑑みるに、大多数の他者ではなく現場に近い者達が自身でもって学びの場を勝ち取る必要があることは明らかであろう。例えば僕は大受の後にはこの「学びの場」と「学びの題材」をインターネットを介して提供する予定である。

さて、本エントリーでは上記のような問題意識でもって学びを推し進めていく。第一項では学びの本質的な意味について考察をし、第二項では主要教科全体を概観する。とはいえ、学びについては改めて僕が書くまでもなく秀逸な記事が存在するため、それを丸ごとリンクすることにする。

学習は2つの要素に分けられる - 意気消沈して曰く

学習は「分析力」「俯瞰力」と「活用する力」に分けられ、前者は「まねぶ」ことで、後者は「問題演習を積む」ことで伸ばすことができる、という話をしてきた。ちなみに僕は怠け者であるから後者が異常に弱い。そんなんで大学受験は大丈夫なのか、ブログを書いている暇などあるのか。

氏は京都大学のアドミッションポリシーの一節を引用することにより、学習は2つの要素に分けられると述べている。

入試問題は「活用する力」が全面に出て受験生を試す形式であるために、毎日のように授業を受け問題を解く中で「分析力」「観察力」といった普遍的な知的態度は無意識の奥深くに沈んでしまっているのではないだろうか。この点でこの記事は大変示唆的である。さて、僕は初めに「秀逸な記事である」と言った。その理由の一つはこの「普遍的な知性」を内部化することなく言語化している点であるが、更には「知的態度を体で示している」という点でこの記事は秀逸なのである。具体的には記事前半の、

上に引用したのは京都大学のアドミッションポリシーの一節である。僕はこのアドポリに、学習に関する普遍的な考え方が書かれていると思う。

最初に挙げられている――このことから京大は特にこれらの力を重視していることが窺えるのだが――「分析力」「俯瞰力」は、直感では理解しがたい。そこで次に挙げられている「活用する力」との対比によってその意を理解したい。

赤字の部分。氏がいう分析や観察が見事に実演されている。以下のように京都大学が提示している内容自体は一見してそれほど情報量が多いものではない。

京都大学が入学を希望する者に求めるものは、以下に掲げる基礎的な学力です。

  1. 高等学校の教育課程の教科・科目の修得により培われる分析力と俯瞰力
  2. 高等学校の教育課程の教科・科目で修得した内容を活用する力
  3. 外国語運用能力を含むコミュニケーションに関する力

思うに、大学受験において重要視されている技能でありかつ無意識に沈み知的活動を根底から支えているものは「国語力」である。例えば文章を「類比」「対比」「因果」「比喩」「例示」の関係性から「読み解く力」であったり、それらを利用して「書く力」がそれにあたる。氏はこの国語力を実演してみせた。文章の構成から重要なセンテンスを理解し、また不明な部分を全体から対比的に理解してみせたのである。また「律動」という表現も的を射ている。

京大は、この人間が整律してきた「考え方」の律動に、受験生が自らをチューンアップすることを求めているのだ。否、京大の場合に限らず、学習するということの本質のひとつにこれがあるのではないかと僕は思う。人類の叡智、その概念を自らに取り込む。これは親が言葉やその背中を以て狩りの仕方を子に伝えたその昔から変わらない、人間の営みなのだ。これは後の"まねぶ"の話に繋がるのであるが、今は置いておく。

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そもそも学習とは個々人に最適化されるべき行為であるため、学習態度が整っている者に向けては言うべきことはないが、この「整った学習態度」こそが環境や己が醸成してきた知性であり、僕が発信したいと考えるものである。まとめをすると、僕の考えでは「学習は創造と醸成を構成要素とする」となる。創造とは、手元にある情報を豊かに展開していく能力、氏が実演してみせたような外向きの国語力である。そして醸成とは、上記のような能力を無意識にしろ意識的にしろ、磨き高めていくことを指す。つまるところ鍛錬である。ここで僕はあえて「定型的な能力」については触れないつもりである。英単語をどれだけ知っているとか、どれだけ数学で解法暗記をしたとか、どれだけ漢文の句形を覚えているとか、このような閉じた学びを極力排除することが目標なのである。本来学びとは外に開いたものである。僕は、満員電車の中会議の資料に目を落とすサラリーマンや英単語帳にしがみつくような学生より、移ろう車窓の景色に目を輝かせ「世界」を広げる幼き頃を取り戻したいと思う。そこに「暗記」などという鈍麻な時間など必要ないはずである。そもそも、いい歳した大人が一生をかけてやりたいと思えるような学問が存在し、その学問を一端を高等教育が教えるとすれば、それは自ずと楽しめるものであるはずである。大学受験は試験であり他者との競争であるとされるが、人間の体は得てしてそれほど強くない。上がらない成績に降下していくモチベーション。電光掲示板に鬱屈が煌々と示される世界は歪で、その一端を大学受験が握るとすれば意識の改革は必要であろう。これは決して外部の他者にもたらされるものではない。ごく内側から湧き上がる知的好奇心とでも言うべき炎と己が向き合うことによってのみ成されるのである。やっていこう。

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英文速読能力を単調増加させるための練習法

序論

筆者は現役の高校生であり、英文学の専門家などではないことを先に断わっておく。今から示す「英文速読の訓練法」は、大学受験英語ーーもちろんこの訓練法は、普遍的であることを意識し考えられたものであるがーーにおける英文の速読能力向上を目的に練り上げた雛形である。今回、人様にわざわざ自作の拙い理論を発表しようと考えたのは、現高等学校教育や塾・予備校での「慣れ」のブラックボックス化に対し、「時間の限られる受験生がどのように立ち向かうべきなのか」の考察が、オープンソースに出回っていないことによる。つまり、本論では、語学に表現や語彙の知識が不要だとは言わないまでも、一対一対応な表現の暗記ではなく具体的な言語の一般性から「英文速読の“慣れ”」について考察をする。

精確に読む

この文を読む読者諸君は恐らく、筆者より英語に習熟しているであろうから、あえて「構造解釈」的な文章読解については、多くを言及しない。英文を精確にーー構造解釈的にーー読むことは、速読以前の言語活動の意思伝達という目的に最適な手法であることは、ここで改めて議論することもないと思う。英語というのは「文意が構造(SVOC)により定まる」という性質の強い言語であると筆者は考えている。文意は各単語の意味とその関係性により定まる。高等学校において「無生物主語構文」と言われる構文が好例で、得てしてこの無生物主語構文はSVOC文型をとり、「SによってOがCする《S→O(s')C(v')》」などといった「因果関係」を示す。このとき、因果関係を示すのは、SVOC文型という単語の位置づけの確定ーーここでは語意と構造は相互に作用しあうことには深く言及しないーーによって行われる。以上より、「英文を読む」こと、いや「英文の解釈がひとつに定まる」には、ある部分ではシステマティックに、また人間情緒的な「解釈」が必要なこと、非ネイティブの英語学習者は、英文という意味内容そのものに、文意を定めるための構造解釈を重ね合わせていることが伺えるのではないか。月並みな表現では、意識に上げないとしても、英文を読むときには構造的解釈を必要としているということになる。さて、次項ではこの構造解釈主義とその「無意識化」の必要性、無意識下された解釈「慣れ」について考察をしていく。解釈の一意性と、速読における習熟が互いに干渉し合い足を引っ張りあってしまう、という問題を解決する方策についても記す。

早く精確に読む

さて、英文を読む上での“早さ”とはどのようなものだろうか。単位時間当たりに目を通せる単語の数、と定義してしまうのは容易だが、周知の通り、英文を読むという営みはそのような単調な様子では行われない。すなわち、脳内で英文を音読しながら読むに当たって、ネイティブ的な文章読解のペースを目的とする場合、各々の単語に抑揚があり、一単語にかける読解時間は一様ではないということである。

(例:Never I've seenーーー)

さて、おそらく地球上で最も早く英文を読めるのはネイティブスピーカーであろうが、彼らにはどんな特別な能力があるのだろうか。ここはひとつ、日本語のネイティブスピーカーである筆者が、何故日本語を早く読めるのかについて解説しよう。まず初めに、筆者は「早く読もう」などと意識して文章を読むことはほとんどない。それでいて僕は世界の非ネイティブの日本語学習者よりは、早く読み書きができるし、それでいて彼らよりも精確だ。そう、ここには序論で触れたようなブラックボックス化が起こっている。つまり、早く読み書きができる人間というのは、文法や構文などを無意識的に処理し、いや「意識に上げない」ために、早く読み書きができるということだ。読者の多くも経験するように、英文を構造的に解釈し、SVOCを全文に振っている限りは、その文を早く読むことはできない。ただ、ここで間違うべきでないことは、文法は明文化された「ネイティブ達の無意識」であり、決して文法を解釈に持ち込まないことが、英文速読を可能にしているわけではないことだ。ともすれば、非ネイティブの英語学習者である我々が、英文を速読せんとするとすれば、目指すことは英文法の無意識化である。確かにこれ自体はありきたりの帰結かもしれないが「如何に無意識化するか」は非常に難しい問題である。何故なら、我々が無意識化“しよう”とする限り、それは意識上にあるからだ。「意識しないこと」に注力した瞬間から、言語は文法を離れ、一意性と意思伝達の機能を失うだろう。

“抑揚”と構造

上の議論において僕は「抑揚」について触れた。ここでいう抑揚は、ネイティブが無意識下で意識するところの、文中の単語中での対象の重み付けであり、それは文法的、あるいは意味において重要な意味を持つ。また文意は構造と語意の相互関係により定まるという話を覚えているだろうか。ここで私が提案したいのは、従来の英文解釈が行うような《構造→文意》のような“解釈方法”ではなく、意味から構造を“予想”するという、発想の転換である。これは表面化されるところの、所謂「予告のthe」に近い概念意識である。つまるところ、ここでの目標は「英文を左から右へと解釈」しつつ「その解釈の随時」に「意味から構造を予想」することである。

何故“早い”のか

以下のSVOCの羅列をある英文の一般形と考えた時、最も解釈に時間がかかるのはどれだろうか。

  • SVM.
  • SVO.
  • SVC.
  • SVOC.
  • SVOO.
  • SMMVMMOMCMM.

筆者ならば、最も解釈に時間がかかるのは《SMMVMMOMCMM》である。修飾語句が入り組んでおり、それらの関係性確定に時間がかかるためだ。そしてこの例は、少々大袈裟ながらも、日頃解釈に時間がかかる文章の特徴を捉えている。せいぜい五種類の文型とその倒置,移動系に分類できる英文達の多様性を支え、かつ解釈に時間を必要とさせるのは、他でもない修飾語句である。(もちろん実際には他の要素も複雑に絡んでくるが.......)

具体的な訓練方法の提案

以上をまとめると「構造解釈の無意識化」こそ、英文速読におけるキーポイントであり、それには「抑揚」の意識が必要である、となる。これを達成するための方法は簡単である。結局のところ「英文に慣れる」必要はある、故にまず英文を読む。すると、解釈を続ける中で表す“意味の都合上、後に修飾語句を導く”語句が現れる。その語句は、後ろから長々と修飾すべき語句、すなわち「包括的」「抽象的」意味を持つ語句である。例えば「関係性:relationship“s”」「事実:(the)fact」などそうだ。そして、これを無意識的に意識するために、まずは意識化する。抽象語句が登場する度にメモをとり、注目すべき語句としてノートにでもまとめるのだ。そして、再びその語が現れれば、半ば短絡的に、その後ろに連なるのは修飾語句のカタマリであると決めつけて、予想通りであったら「しめしめ」として前の名詞の詳説として解釈をすればよい。あとは、たびたびメモした一覧を眺めて、次に一覧にある単語が現れたときには“VIP待遇”をできるよう、少々身構えておくのだ。メモした単語の数が増えれば増えるほど、構造解釈のカンは鋭くなる。単語集をただの羅列としてみるのではなく、抑揚のある“リズム”のようにして捉えること。これが、複雑な構造を軽快に飛び跳ねながら解釈をする方法なのだ。

 

 

2019.6.8,22:20(リンクフリー)

 

某某大学理某Ⅲ某を志望する理由

脳を科学したい

いつからか僕は、このような思いを反芻するようになっていた。きっかけは、神経伝達物質を操ることで、日々のパフォーマンスを上げるという動機の、所謂ビジネス書,所詮ライフハック集を読んだことであった。初めてあの本を読んだ時の、神経伝達物質:言ってしまえば“ただの物質”に人間の認知機能は左右されているという事実に対する高揚は忘れられない。人体というのは脳の支配下にあり、その脳の中で蠢いている“しくみ”には、神経伝達物質というものが関わっているらしい。このことは、自分の身体を意のままに操れないことにフラストレーションを溜めていた僕にとって、非常に刺激的な内容だった。脳内物質を意のままに操れれば人体機能を掌握できるという理解をしたのだ。そして思った、僕は脳科学をやる。

とはいっても、人間の意思は脆い。僕のそれも例に漏れず、目標意識が無益なプライドと化すのにそう時間はかからなかった。中学受験に失敗した反動で、ゲームにどっぷり浸かったりもしたっけか。あ、そうそう。この夢を掲げたのは小学五年生の秋で、その当時、僕には大好きな女の子が居たんだっけ。彼女は特別整った顔立ちをしているわけでも、抜群のスタイルを持っているわけでもなかったけど、我々男子にはとても人気があったなぁ。

どうやら、僕は彼女に脳みそをはちみつ漬けにされていたようで、五年経った今でも腐らず初恋語りができてしまう。ありがたいことだ。

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彼女の目標は医者らしい。

卒業文集にクラスメイト達が、ちょうどエゾジカのフンみたいな汚い字で「とにかく知っている職業を書いてみました」みたいな、心底どうでもいい夢を列挙している中、彼女のその夢だけには、凛とした存在感があったっけなぁ。

その、品のある整った字で書かれた「医者」という目標に言いようのない感動を覚えたのは、僕が小学校を卒業し、彼女との交流を失ってから二年後の頃だった。彼女の言う「医者になりたい」という言葉の重さや深みについて理解したのは、別れてから随分時間が経った頃になってしまった。そうやって幼き愚かな僕は、おそらく一生に一度きりの初恋を、とうとう自覚することなく終えた。

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彼女は僕を僕と認めてくれていただろうか。

「ヒステリックに叫ぶ母親」「アルコール漬けの父親」「ご都合主義のがま口教師」「“社交性に富んだ”同級生」.......

闇鍋のような僕の生活環境において、彼女だけが、唯一対等に僕と接してくれていた。それに甘えるように僕は、彼女に依存しきってきた。それでいて彼女が僕に深く踏み入ると、強く拒絶をしていた。ばかだな。

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彼女は賢かった。だから、席替えの度に彼女の隣を望む僕の下心なんて、あの拙い口実では隠しきれていなかっただろう。それでいて何一つ嫌な顔をせず、友達として明るく親しく接してくれたことを、僕は今も嬉しく思う。

ある時、席替えがじゃんけんになり、敗北した。敗者の僕は、指定席と化していた彼女の隣を初めて、諦めることとなった。

「寂しくなるねぇ」「じゃあね」

「........!」「ぐっばい笑」

言いようのない喪失感、もし触れられるなら手繰り寄せたい、彼女との微妙な距離が僕を骨抜きにした。「彼女は“ただの友達”」という体だったから、悔しさに机を叩くなんてことはしなかったけど、魂を抜かれたような呆けた顔でストーブの熱気に手をかざした昼休みを僕は忘れられない。

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「.......なぁ、どこ受けたん?」

「個人情報!」「君には教えないよ」

「ふぅん.......」

僕は彼女と同じ中学校に行きたかった。僕には元々志望している中学があったから、彼女がそこを受けているのか気になって聞いた。不機嫌さを全面に出され「君には教えない」ときて、僕は酷く傷ついた。これでも自他共に認める「仲良し」だったし、当然教えてくれるものと思っていたのに。その日はショックで彼女以外との会話が上の空だった。

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この絶妙な距離感は、僕の意気地無しを触発し、とうとう告白することなく卒業の日を迎えてしまった。歩幅の合わない僕らの旅人算は、虚しさを一層積み重ねていくのみだ。

冒頭に「人間の意思は脆い」といった。人は愚かにも、目先の快のために長年積み上げてきたものを簡単に捨ててしまう。だから今回も、僕の決意はいつしか色褪せて消えてしまうだろうと、志望を固めてからも弱音を浮かべていた。弱音を吐きながらも今も志望を維持できているのは、何も、成績が上昇しているからではない。ただの反芻なのだ。ガムを噛むように、意地汚く、諦め悪く、醜い音を立てて繰り返す。それで味のなくなってしまうガムならば、紙に包んで捨ててしまうはずだった。

往生際の悪い僕は失われたガムの味を憂いて、自分で口に調味料を突っ込んだのだ。セルフモチベートなんて“素敵”なものじゃない。こんなの、ただの意地汚さだ。そういえば、精神科医に「気張り続ける人生」を柔らかく否定されたっけか。僕は、彼女のような勤勉さ,聡明さを持ち合わせていないから、地べたを這いずり抗精神病薬をキメて諦め悪く進み続けるしかないと考えている。でも本当は、彼女と同じ中学に行きたかったし、告白もしたかったな。

いつか、僕が何かを完遂することで、彼女だけでもいい、彼女に僕を認めて貰えるだろうか。彼女のように、いつかはなれるだろうか。

僕は彼女に憧れていた。

対人不安は自意識過剰か?

僕は対人不安が強い。

僕は双極性障害(躁鬱)を患っている。

といっても、精神科医抗精神病薬を処方しつつも未だに診断名を教えてはくれないが、躁と鬱が存在し、エビリファイを断薬した頃から夜眠れなくなり、再開したらそれが収まるようであったので、半ば自己診断的に双極性障害を名乗っているにすぎないのだが。

僕の対人不安のきっかけは小学生時代に遡る。友達だと思っていた集団からはじき出されて、彼らとその親に強烈な排斥を受けたことが、当時の、いや現在の僕に深く、「人間不信」という生傷を刻み込んだ。僕が彼らの家に遊びに行き、何らかの原因で彼らを不快な気分にさせたことが原因らしい。その場では何事もなく、笑顔でさよならの挨拶をした記憶がある。それから、彼らは僕に永遠のさよならという隔絶を示すようになる。それからは、あることないこと全部が僕のせいになったし、それでいて僕が排斥されている理由など全く伝えられなかった。謝罪のしようもないまま、おそらく自分が悪いのであろうという、足場の危うい自責の念と謝罪の心でもって社交生活をサバイブした。もちろん、僕が一方的な被害者だとは言わない。ただ、親ぐるみの排斥が子供心に強烈すぎたというだけだ。

ある日、過ちを犯したと知らない僕が、トモダチの家に遊びに行った時のことだ。僕は先に到着した友達の自転車にならい、行儀の良い列を成すように自転車を止め、ピンポンを押した。しばらく後に彼の母親らしい人間の声がして、「(友達)は外出中」であり「ここには居ない」ことが告げられた。僕の記憶が正しければ、下校時彼らとは彼の家で遊ぶことを約束したし、僕の聴覚が正常であれば、その家の二回の窓からは彼らの笑い声が聞こえていた。僕は「そうですか」と返事をした。インターホンのカメラの死角に駆け寄りみっともなく泣いた。涙が乾かぬうちに自転車に乗り込み、彼らの遊び場を後にする。そのとき、一際大きい声が僕を刺した。醜く歪んだ顔、立てられる中指、煽るような言葉たち。周囲には僕以外に人は居なかったし、そんなことを確認するよりも早く、彼らの悪意は自分に向けられたモノだと解した。子供は時に残酷である。後に和解し、僕が犯した過ちを聞かされても、当時の僕にはお釣りが欲しくなるような仕打ちだった。この頃から僕は人格を演じるようになる。腹に秘められた思いが怖くて、おちゃらけて皆を笑わせるようなピエロを演じるようになった。これは今も「度々ボケるし信用ならないヤツ」という人格として引き継がれている。人が笑っていないことが不安だった。またあの時のように、とびっきりの悪意を向けてくるかもしれない恐怖に日々襲われていた。そして、頼りの綱である大人や学校教師にさえ排斥され、あるいはコドモアツカイされ、話すら聞いてもらえなかった記憶は今の僕にも根強い。みんなだいきらいだ。

 

さて、これは自意識過剰だろうか。

前にブログで、ある日の対人不安エピソードを語ったことがある。翌日の朝には、匿名のメッセージボックスのメッセージに「自意識過剰ですよ」と御丁寧にご指摘頂いてしまった。その時、「自意識過剰でもいいから、この対人不安を直してくれよ」と思ったが、本当にこれは自意識過剰なのだろうか。過剰なのだろうか。

経験は最大の想像である。

深く頷きたくなる言葉だろう。僕が今考えた。経験とは想像である。よく鬱病患者が、「鬱になるまではメンヘラは気持ち悪いと思っていた。鬱は気持ちの問題だと思っていた。実際になってみると、この考えは違うと気づいた。」なんてエピソードを洩らすが、ここにも経験は想像であるということが、よく表れている。結局、人間というのは、経験しないものを自分のモノとして理解したり、思いやったりすることができないように出来ている。知識でいくら貧困な家庭の現状を知ろうと、それはちょうど知識であり、彼らの感じているそれとは相当な乖離がある。痛いほどよく分かるという言葉は、本来「その痛み」を経験したことがある人間のみが発するべき言葉ではないだろうか。

僕はこれまで何度も不安に襲われ体が動かなくなったが、その度に他人から「考えすぎだ」「気にし過ぎだ」とご指摘頂いている。しかしながら、僕がそのとき感じている不安は、おおよそ未知のものに向ける推測の結果ではなく、痛みを伴う事象の追体験なのである。

おいおい、まさかこれも自“意識”過剰なのかい?

【勉強継続法】ADHD×大学受験の相性は最悪だが、なんとかなるかもしれない。

 

はじめに

ADHDとの死闘の結果大敗しまして、双極性障害(躁鬱)になってしまいました。一当事者として、死闘により得た知見を共有したくて、このエントリーを書くことを決めました。主にADHD受験生に向けて、先駆けとして伝えられるモノがいくつかあるので伝えていこうと、そういうわけです。よろしくお願いします。

※長話に付き合ってられない方は太字のみを拾い読みすることをオススメします。もしくは、本題の「勉強を開始するために」から読み始めてください。

※以下断定的な物言いになる場面がありますが、全ては非専門家の筆者の主観ですので、参考までに留めて頂けると幸いです。

※珍しく(?)主張が強い内容となっております、ご注意下さい。

 

ADHDを“障害”たらしめるモノ

ADHD(注意欠陥・多動性障害)の症状は、その名の通り「注意欠陥」と「多動」に二分されます。本エントリーでは上記のうちの「注意欠陥」に焦点を当てて話を進めていきます。

さて、ADHDを障害たらしめるモノとはなんでしょうか。僕の考えでは「制御不能な拡散性」、これです。“拡散”とは“集中”の対極に位置する状態です。例えば、「集中できない」という状態は「(注意が)拡散している」と表現できます。また、ポップコーンのように湧く思考や、止まらない脳内BGMは「思考の拡散(or多動)」と表現できます。

ところで、「受験勉強は当然集中してやるものであり、集中時間や深度は勉強の質に直結している」ということは、受験生の多くが認める事実でしょう。ここで、ADHD特有の拡散性こそ、受験勉強を障害する直接的原因であるという理解ができるのではないでしょうか。

 

受験勉強の本質

結局のところ、受験勉強は「何ができれば」合格できるのでしょう。そりゃキミ、勉強に決まっているじゃないか!……その通りです。「勉強をしなさい」「課題をしなさい」「小テストの勉強もしなさい」「なぜ勉強しないんだ」……高校の進路指導がいつも我々に言うのは、「勉強をしろ」ということです。確かに、勉強をせずに合格することなど不可能です。しかしながら、受験生にかけるべき言葉は、果たして本当に「勉強しなさい」なのでしょうか?さらに言うと、あなたが自分に掛けるべき言葉は本当に「勉強しなさい」なのでしょうか?

では、あなたは勉強をしている人間に勉強することを命じますか?

これは明らかにノーでしょう。勉強をしていないから「勉強しなさい」となるのです。確かに勉強するべきなのは正しい、しかし、「勉強をしなさい」と叫ぶような指導は誤りであると、僕は考えます。勉強をすること自体に問題がある生徒にとっては重荷でしかありません。

勉強せねばという意識は、自分が現在勉強をできていないということの裏返しです。この問題意識をわすれずにいてください。ここで、僕は解決的な思考をしてほしいのです。「どうすれば勉強が継続できるか」から考えていきましょう。よろしくお願いします。

 

戦うな

ADHDと戦うのは避けた方が無難です。冒頭に示した通り、僕はADHDに抗うように戦い、敗れました。それだけではなく、双極性障害(躁鬱)を発症し、今も憂鬱な毎日を送っています。対人不安もぶり返し、通学が苦痛でしかありません。

再度確認をしますが、ADHD発達障害であり、発達障害を孕むのは他でもない自分です。ADHDに抗うことは往々にして自分自身を傷つけることになります。おそらく、死ぬまで勝てません。自分を責めないよう、あくまで解決的な思考をしましょう。よろしくお願いします。

さて、ADHDと戦わずしてどうやって受験勉強を“継続” “集中”するのかですが、僕の一年間の情報収集と実践と考察の結果を以下に記します。普遍性,再現性を追求したテクニックであるので、他の方にもそれなりに適応できるものと考えております。

 

①勉強を「開始」するために

→勉強を開始できない原因から攻める

  • モチベーションがない場合

そもそもモチベーションとはなんでしょうか。勉強を開始できない理由をモチベーションがないから、と決めつけるのも結構ですが、その決めつけには何の価値があるのでしょうか。モチベーションとは何で、どういう時に出るのか。これがわからない以上、モチベーションに頼るべきではありません。

そこで、習慣化の力を借りましょう。最小の努力(意志の力が必要ないほど簡単なもの)を継続し、勉強を習慣化するのです。「なんだ、そんな単純なことかよ。長話に付き合って損したわ。」なんて声が聞こえてきそうですが、あなたはそんな単純なことすらできない、違いますか。そう、もちろん、簡単にこれが達成できるほど発達“障害”は甘くはありません。

行動できないなら強制力が必要です。僕はリマインダーを仕掛けることをおすすめします。自作ポエムを添えて、感情に訴えかけるようにすると、尚良しですね。

それでもできない方、ちょうど僕みたいな人間にオススメするのはif-thenplanningです。if-then planningとは、「もし○○ならば、そのとき××する」という形でスケジュールを組む方法のことです。

勉強ができないとはいえ、毎日眠る時まで部屋の壁を見つめてぼーっとしている、なんてことはないと思います。何らかの習慣的動作が勉強を妨げている、違いますか。ゲームなどがそうです。その時に威力を発揮するのがif-then planningです。「悪習慣は置換せよ」、僕の座右の銘です。悪習慣は他の習慣に置換してください。例えば以下のようにします。

例:「もしスマホを開いたら、Twitterより前にリマインダーを開く」

ポイントは「Twitterより前に」です。リマインダーを開いた後に、Twitterをしてよいことを暗示しておくことで、リマインダーを開くという動作にモチベーションを生みます。また、リマインダーを開くという動作のハードルを下げる効果もあります。

僕の場合、リマインダーを開いた後にTwitterを開くこともあれば、そのまま「ちょっとやってみようかな」なんて思い立って勉強を始めることもあります。もしリマインダーを開いたら、30秒だけリマインダーの内容(TODO)をやってみる、なんてプランニングもいいと思います。

余談ですが、オススメとして「もしスマホをいじっていて「何やってんだろ自分は」とふと我に返り虚しくなったとき、勉強をしてみる」なんてものがあります。ありませんか?ふと我に返り虚しくなること。そこで自責をするのではなく、勉強をしましょう。よろしくお願いします。

 

②勉強を「継続」するために

→意識と思考の拡散を防ぐ

  • とにかく気が散る場合

他のことを考えてしまう場合は筆記開示をするといいです。頭に浮かぶ言葉を全て、紙に書き出しましょう。後に残すべき内容だと思ったら畳んで机の中へ、どうでもいい思いつきであれば丸めて捨ててしまいましょう。一番大事なのは、浮かんでくる思考に囚われないことです。すぐに自分の外に書き出してしまいましょう。

  • それでも気が散る場合

部屋を掃除しましょう。集中したい対象以外は部屋の外に出してください。そんな大袈裟な、と思うかもしれませんが、ここは徹底的にした方が遥かに効果的です。

場所を変えるのもよろしいかと思います。カフェか図書館か、はたまた学校か。是非集中を妨げるものを減らしてください。耳栓をするのもオススメです。効率は低下しますが、音楽を聴くのもナシではないかと思います。

△ポイント

ここまでの内容におけるポイントは、「まず始める」と「続ける」で段階を分けることだと僕は考えます。始める段階では継続することを考えないようにしてください。目の前のことだけに集中するようにして、頭を働かせ過ぎないようにするといいです。余計な思考が「今この瞬間」に集中することを妨げます。

 

③特有の「飽き」対策

  • 参考書はハマるまで転々とする

ADHDはただでさえ集中して物事を行うことが難しいと思います。なるべく集中できる、ハマる参考書を使うようにしましょう。僕はやっとハマる参考書を見つけましたが、やはり、今までとは全く効率が違います。

  • とにかく書け

飽きが生じる原因は、僕が思うに大きくわけて二つです。

「やったことの成果が見られない」

「成果が現れるのが遅い」

まず書いてみましょう。なかなか成果が現れにくい勉強において、「これだけやったぞ」という達成感は大きな意味を持ちます。目的と手段を履き違えるな、という主張もありますが、我々がまずすべきなのは、勉強を開始し継続することであり、効率を追求するのはその後ではないでしょうか。

成果について、過集中についても少し。

過集中は、これは僕の霊感ですが、作業興奮に非常に近いものではないかと考えています。その作業をすることが、あるいは集中することが楽しい。楽しいからドーパミンが出る。故にさらに集中する。このような連鎖が関係しているのでは、と。

 

④一番大切なこと

ADHDに抗わないという基本姿勢を大切にしてください。特性は敵に回すと障害になります。僕の通う精神科の医者は「良い面悪い面が表裏一体だよ」と言いました。主語はありませんでしたが、それは文脈により明らかでした。僕もその通りだと思います。無理はしないように、いや、無理をしなくてもできるようにすべきであると考えます。どうか、鬱にならないよう。自責ではなく、解決的な思考をしてください。よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

おまけ:当事者の経験談

僕は典型的なADHD児でした。小学校低学年のときには席を頻繁に立ち、そのたびに叱られしぶしぶ席に戻るような問題児でした。(特別支援学級に入ることも検討されたようでした)

多動に自制が効くようになってからも注意散漫は続き、授業の大半を眠りに費やし、たまに顔を上げた時に見えた板書のみで勉強をするような生活が続いておりました。

一方では、小学四年の頃から某オンラインアクションゲームにハマり、寝食を退けて深夜までゲームに没頭していました。学校での注意散漫はどこへやら……。当時の集中力から考えても「ADHDには集中力がない」という理解には疑問符が浮かびます。(「拡散力が強いだけではないのか」)※精神科受診は低学年の頃からしていたようですが薬が合わず、中学校入学と同時に受診は中断されたようです。

ぬっと言う間に月日は経ち、高校受験の日になりました。正直、面接以外は余裕で合格をしましたが、過去問では殆ど点を落とさなかったのに関わらず、本番では失点が多数みられたのは自分でも驚きでした。

ある日、東京大学志望に際し青チャート数Ⅰ・Aを購入したことを覚えています。高校入学までに時間があったので、予習をしてやろうと考えた訳です。しかし、当然ながら継続することができず、青チャートは枕と化しました。しまいには、高校で青チャートが配られてしまい、初代青チャートは、いよいよ何の役にも立たず本棚にしまわれたのでした。

先程、東京大学を志望したと書きました。志望理由はともかく、この「早期に志望を固める」ということは、その後の僕の人生を鬱に向かわせる最も大きい要因となりました。

高二には合格点を取れるようにという、素晴らしい勉強計画を立て早二ヶ月、僕は早くも焦っていました。全く勉強ができないのです。ここでの「勉強ができない」はもちろん、「勉強をすることができない」です。集中力の低さは浮き彫りになり、週末課題は全く手を付けず、定期テストはこれまた全く対策しない(正しくはできない)まま月日だけが過ぎていきました。偏差値は国語が60英語が65数学が50でした。ここで特筆するべきは、僕自身この現状にとても焦り、また強烈に自責していたことです。やかて僕は鬱になりました。毎日の食事は砂を噛むようで、空きっ腹への食事すら喉を通らないような生活。仲の良い友達との談笑が、妙にバカバカしくて常時上の空でした。この頃から強烈な対人不安もぶり返し、毎日の通学はただの苦痛と化したのでした。

ある日の帰宅後、ソファに座ったっきり身体が全く動かなくなったときに、精神科受診を決意しました。長期間通院を中断していたため初診の扱いになり、予約待ちは二ヶ月と、当時の僕には長すぎるものでした。予約待ちの間も僕は崩壊し続けました。精神科受診の日があと三日遅れていたら、恐らく僕は自死を選ばないまでも、大変な自傷行為に走っていたでしょう。精神科で抗精神病薬を処方され、文字通り一命を取りとめました。しかし、これを書いている今尚、鬱は続き、薬は初診の頃の四倍の量となりました。医者も「薬がドンドン増える…」などとボヤいていたのが印象的でした。

願わくば、他の発達障害者の方々には同じ苦しみを味わってほしくありません。

自分を責めないでください。解決的な思考をしてください。そのための材料はネットに沢山転がっていますし、当ブログでも発信していきます。よろしくお願いします。