第一項:学びとは

第一項:学びとは

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前々から考えているのは、大学受験で地方受験生が抱える格差についてである。というのは、単純なものでは「塾,予備校,参考書の情報がない」ことから始まり「学びの場の欠乏」や「学問との向き合い方」などにかけて、情報に格差があるというものである。今日の大学受験界隈では「塾,予備校,参考書」の有象無象な情報こそ増えてきているものの、高等教育課程を学問的に学べる場はやはり欠乏している。学びの現場で学びに向き合うような教師や生徒の絶対数は非常に少なく、またそのような状態が醸成してきた空気が新たな芽すら無意識に刈り取ってしまっていることを感じる。近日はやれ高大接続だと宣い学びの実質的な現場である大学や高校を放ったらかしにして「改革」は進められているが、この現状を鑑みるに、大多数の他者ではなく現場に近い者達が自身でもって学びの場を勝ち取る必要があることは明らかであろう。例えば僕は大受の後にはこの「学びの場」と「学びの題材」をインターネットを介して提供する予定である。

さて、本エントリーでは上記のような問題意識でもって学びを推し進めていく。第一項では学びの本質的な意味について考察をし、第二項では主要教科全体を概観する。とはいえ、学びについては改めて僕が書くまでもなく秀逸な記事が存在するため、それを丸ごとリンクすることにする。

学習は2つの要素に分けられる - 意気消沈して曰く

学習は「分析力」「俯瞰力」と「活用する力」に分けられ、前者は「まねぶ」ことで、後者は「問題演習を積む」ことで伸ばすことができる、という話をしてきた。ちなみに僕は怠け者であるから後者が異常に弱い。そんなんで大学受験は大丈夫なのか、ブログを書いている暇などあるのか。

氏は京都大学のアドミッションポリシーの一節を引用することにより、学習は2つの要素に分けられると述べている。

入試問題は「活用する力」が全面に出て受験生を試す形式であるために、毎日のように授業を受け問題を解く中で「分析力」「観察力」といった普遍的な知的態度は無意識の奥深くに沈んでしまっているのではないだろうか。この点でこの記事は大変示唆的である。さて、僕は初めに「秀逸な記事である」と言った。その理由の一つはこの「普遍的な知性」を内部化することなく言語化している点であるが、更には「知的態度を体で示している」という点でこの記事は秀逸なのである。具体的には記事前半の、

上に引用したのは京都大学のアドミッションポリシーの一節である。僕はこのアドポリに、学習に関する普遍的な考え方が書かれていると思う。

最初に挙げられている――このことから京大は特にこれらの力を重視していることが窺えるのだが――「分析力」「俯瞰力」は、直感では理解しがたい。そこで次に挙げられている「活用する力」との対比によってその意を理解したい。

赤字の部分。氏がいう分析や観察が見事に実演されている。以下のように京都大学が提示している内容自体は一見してそれほど情報量が多いものではない。

京都大学が入学を希望する者に求めるものは、以下に掲げる基礎的な学力です。

  1. 高等学校の教育課程の教科・科目の修得により培われる分析力と俯瞰力
  2. 高等学校の教育課程の教科・科目で修得した内容を活用する力
  3. 外国語運用能力を含むコミュニケーションに関する力

思うに、大学受験において重要視されている技能でありかつ無意識に沈み知的活動を根底から支えているものは「国語力」である。例えば文章を「類比」「対比」「因果」「比喩」「例示」の関係性から「読み解く力」であったり、それらを利用して「書く力」がそれにあたる。氏はこの国語力を実演してみせた。文章の構成から重要なセンテンスを理解し、また不明な部分を全体から対比的に理解してみせたのである。また「律動」という表現も的を射ている。

京大は、この人間が整律してきた「考え方」の律動に、受験生が自らをチューンアップすることを求めているのだ。否、京大の場合に限らず、学習するということの本質のひとつにこれがあるのではないかと僕は思う。人類の叡智、その概念を自らに取り込む。これは親が言葉やその背中を以て狩りの仕方を子に伝えたその昔から変わらない、人間の営みなのだ。これは後の"まねぶ"の話に繋がるのであるが、今は置いておく。

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そもそも学習とは個々人に最適化されるべき行為であるため、学習態度が整っている者に向けては言うべきことはないが、この「整った学習態度」こそが環境や己が醸成してきた知性であり、僕が発信したいと考えるものである。まとめをすると、僕の考えでは「学習は創造と醸成を構成要素とする」となる。創造とは、手元にある情報を豊かに展開していく能力、氏が実演してみせたような外向きの国語力である。そして醸成とは、上記のような能力を無意識にしろ意識的にしろ、磨き高めていくことを指す。つまるところ鍛錬である。ここで僕はあえて「定型的な能力」については触れないつもりである。英単語をどれだけ知っているとか、どれだけ数学で解法暗記をしたとか、どれだけ漢文の句形を覚えているとか、このような閉じた学びを極力排除することが目標なのである。本来学びとは外に開いたものである。僕は、満員電車の中会議の資料に目を落とすサラリーマンや英単語帳にしがみつくような学生より、移ろう車窓の景色に目を輝かせ「世界」を広げる幼き頃を取り戻したいと思う。そこに「暗記」などという鈍麻な時間など必要ないはずである。そもそも、いい歳した大人が一生をかけてやりたいと思えるような学問が存在し、その学問を一端を高等教育が教えるとすれば、それは自ずと楽しめるものであるはずである。大学受験は試験であり他者との競争であるとされるが、人間の体は得てしてそれほど強くない。上がらない成績に降下していくモチベーション。電光掲示板に鬱屈が煌々と示される世界は歪で、その一端を大学受験が握るとすれば意識の改革は必要であろう。これは決して外部の他者にもたらされるものではない。ごく内側から湧き上がる知的好奇心とでも言うべき炎と己が向き合うことによってのみ成されるのである。やっていこう。

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