某某大学理某Ⅲ某を志望する理由

脳を科学したい

いつからか僕は、このような思いを反芻するようになっていた。きっかけは、神経伝達物質を操ることで、日々のパフォーマンスを上げるという動機の、所謂ビジネス書,所詮ライフハック集を読んだことであった。初めてあの本を読んだ時の、神経伝達物質:言ってしまえば“ただの物質”に人間の認知機能は左右されているという事実に対する高揚は忘れられない。人体というのは脳の支配下にあり、その脳の中で蠢いている“しくみ”には、神経伝達物質というものが関わっているらしい。このことは、自分の身体を意のままに操れないことにフラストレーションを溜めていた僕にとって、非常に刺激的な内容だった。脳内物質を意のままに操れれば人体機能を掌握できるという理解をしたのだ。そして思った、僕は脳科学をやる。

とはいっても、人間の意思は脆い。僕のそれも例に漏れず、目標意識が無益なプライドと化すのにそう時間はかからなかった。中学受験に失敗した反動で、ゲームにどっぷり浸かったりもしたっけか。あ、そうそう。この夢を掲げたのは小学五年生の秋で、その当時、僕には大好きな女の子が居たんだっけ。彼女は特別整った顔立ちをしているわけでも、抜群のスタイルを持っているわけでもなかったけど、我々男子にはとても人気があったなぁ。

どうやら、僕は彼女に脳みそをはちみつ漬けにされていたようで、五年経った今でも腐らず初恋語りができてしまう。ありがたいことだ。

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彼女の目標は医者らしい。

卒業文集にクラスメイト達が、ちょうどエゾジカのフンみたいな汚い字で「とにかく知っている職業を書いてみました」みたいな、心底どうでもいい夢を列挙している中、彼女のその夢だけには、凛とした存在感があったっけなぁ。

その、品のある整った字で書かれた「医者」という目標に言いようのない感動を覚えたのは、僕が小学校を卒業し、彼女との交流を失ってから二年後の頃だった。彼女の言う「医者になりたい」という言葉の重さや深みについて理解したのは、別れてから随分時間が経った頃になってしまった。そうやって幼き愚かな僕は、おそらく一生に一度きりの初恋を、とうとう自覚することなく終えた。

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彼女は僕を僕と認めてくれていただろうか。

「ヒステリックに叫ぶ母親」「アルコール漬けの父親」「ご都合主義のがま口教師」「“社交性に富んだ”同級生」.......

闇鍋のような僕の生活環境において、彼女だけが、唯一対等に僕と接してくれていた。それに甘えるように僕は、彼女に依存しきってきた。それでいて彼女が僕に深く踏み入ると、強く拒絶をしていた。ばかだな。

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彼女は賢かった。だから、席替えの度に彼女の隣を望む僕の下心なんて、あの拙い口実では隠しきれていなかっただろう。それでいて何一つ嫌な顔をせず、友達として明るく親しく接してくれたことを、僕は今も嬉しく思う。

ある時、席替えがじゃんけんになり、敗北した。敗者の僕は、指定席と化していた彼女の隣を初めて、諦めることとなった。

「寂しくなるねぇ」「じゃあね」

「........!」「ぐっばい笑」

言いようのない喪失感、もし触れられるなら手繰り寄せたい、彼女との微妙な距離が僕を骨抜きにした。「彼女は“ただの友達”」という体だったから、悔しさに机を叩くなんてことはしなかったけど、魂を抜かれたような呆けた顔でストーブの熱気に手をかざした昼休みを僕は忘れられない。

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「.......なぁ、どこ受けたん?」

「個人情報!」「君には教えないよ」

「ふぅん.......」

僕は彼女と同じ中学校に行きたかった。僕には元々志望している中学があったから、彼女がそこを受けているのか気になって聞いた。不機嫌さを全面に出され「君には教えない」ときて、僕は酷く傷ついた。これでも自他共に認める「仲良し」だったし、当然教えてくれるものと思っていたのに。その日はショックで彼女以外との会話が上の空だった。

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この絶妙な距離感は、僕の意気地無しを触発し、とうとう告白することなく卒業の日を迎えてしまった。歩幅の合わない僕らの旅人算は、虚しさを一層積み重ねていくのみだ。

冒頭に「人間の意思は脆い」といった。人は愚かにも、目先の快のために長年積み上げてきたものを簡単に捨ててしまう。だから今回も、僕の決意はいつしか色褪せて消えてしまうだろうと、志望を固めてからも弱音を浮かべていた。弱音を吐きながらも今も志望を維持できているのは、何も、成績が上昇しているからではない。ただの反芻なのだ。ガムを噛むように、意地汚く、諦め悪く、醜い音を立てて繰り返す。それで味のなくなってしまうガムならば、紙に包んで捨ててしまうはずだった。

往生際の悪い僕は失われたガムの味を憂いて、自分で口に調味料を突っ込んだのだ。セルフモチベートなんて“素敵”なものじゃない。こんなの、ただの意地汚さだ。そういえば、精神科医に「気張り続ける人生」を柔らかく否定されたっけか。僕は、彼女のような勤勉さ,聡明さを持ち合わせていないから、地べたを這いずり抗精神病薬をキメて諦め悪く進み続けるしかないと考えている。でも本当は、彼女と同じ中学に行きたかったし、告白もしたかったな。

いつか、僕が何かを完遂することで、彼女だけでもいい、彼女に僕を認めて貰えるだろうか。彼女のように、いつかはなれるだろうか。

僕は彼女に憧れていた。