対人不安は自意識過剰か?

僕は対人不安が強い。

僕は双極性障害(躁鬱)を患っている。

といっても、精神科医抗精神病薬を処方しつつも未だに診断名を教えてはくれないが、躁と鬱が存在し、エビリファイを断薬した頃から夜眠れなくなり、再開したらそれが収まるようであったので、半ば自己診断的に双極性障害を名乗っているにすぎないのだが。

僕の対人不安のきっかけは小学生時代に遡る。友達だと思っていた集団からはじき出されて、彼らとその親に強烈な排斥を受けたことが、当時の、いや現在の僕に深く、「人間不信」という生傷を刻み込んだ。僕が彼らの家に遊びに行き、何らかの原因で彼らを不快な気分にさせたことが原因らしい。その場では何事もなく、笑顔でさよならの挨拶をした記憶がある。それから、彼らは僕に永遠のさよならという隔絶を示すようになる。それからは、あることないこと全部が僕のせいになったし、それでいて僕が排斥されている理由など全く伝えられなかった。謝罪のしようもないまま、おそらく自分が悪いのであろうという、足場の危うい自責の念と謝罪の心でもって社交生活をサバイブした。もちろん、僕が一方的な被害者だとは言わない。ただ、親ぐるみの排斥が子供心に強烈すぎたというだけだ。

ある日、過ちを犯したと知らない僕が、トモダチの家に遊びに行った時のことだ。僕は先に到着した友達の自転車にならい、行儀の良い列を成すように自転車を止め、ピンポンを押した。しばらく後に彼の母親らしい人間の声がして、「(友達)は外出中」であり「ここには居ない」ことが告げられた。僕の記憶が正しければ、下校時彼らとは彼の家で遊ぶことを約束したし、僕の聴覚が正常であれば、その家の二回の窓からは彼らの笑い声が聞こえていた。僕は「そうですか」と返事をした。インターホンのカメラの死角に駆け寄りみっともなく泣いた。涙が乾かぬうちに自転車に乗り込み、彼らの遊び場を後にする。そのとき、一際大きい声が僕を刺した。醜く歪んだ顔、立てられる中指、煽るような言葉たち。周囲には僕以外に人は居なかったし、そんなことを確認するよりも早く、彼らの悪意は自分に向けられたモノだと解した。子供は時に残酷である。後に和解し、僕が犯した過ちを聞かされても、当時の僕にはお釣りが欲しくなるような仕打ちだった。この頃から僕は人格を演じるようになる。腹に秘められた思いが怖くて、おちゃらけて皆を笑わせるようなピエロを演じるようになった。これは今も「度々ボケるし信用ならないヤツ」という人格として引き継がれている。人が笑っていないことが不安だった。またあの時のように、とびっきりの悪意を向けてくるかもしれない恐怖に日々襲われていた。そして、頼りの綱である大人や学校教師にさえ排斥され、あるいはコドモアツカイされ、話すら聞いてもらえなかった記憶は今の僕にも根強い。みんなだいきらいだ。

 

さて、これは自意識過剰だろうか。

前にブログで、ある日の対人不安エピソードを語ったことがある。翌日の朝には、匿名のメッセージボックスのメッセージに「自意識過剰ですよ」と御丁寧にご指摘頂いてしまった。その時、「自意識過剰でもいいから、この対人不安を直してくれよ」と思ったが、本当にこれは自意識過剰なのだろうか。過剰なのだろうか。

経験は最大の想像である。

深く頷きたくなる言葉だろう。僕が今考えた。経験とは想像である。よく鬱病患者が、「鬱になるまではメンヘラは気持ち悪いと思っていた。鬱は気持ちの問題だと思っていた。実際になってみると、この考えは違うと気づいた。」なんてエピソードを洩らすが、ここにも経験は想像であるということが、よく表れている。結局、人間というのは、経験しないものを自分のモノとして理解したり、思いやったりすることができないように出来ている。知識でいくら貧困な家庭の現状を知ろうと、それはちょうど知識であり、彼らの感じているそれとは相当な乖離がある。痛いほどよく分かるという言葉は、本来「その痛み」を経験したことがある人間のみが発するべき言葉ではないだろうか。

僕はこれまで何度も不安に襲われ体が動かなくなったが、その度に他人から「考えすぎだ」「気にし過ぎだ」とご指摘頂いている。しかしながら、僕がそのとき感じている不安は、おおよそ未知のものに向ける推測の結果ではなく、痛みを伴う事象の追体験なのである。

おいおい、まさかこれも自“意識”過剰なのかい?